新井碧:京都蔦屋書店
2026. 03. 06
京都蔦屋書店にて開催中のグループ展「Interwoven Chapters」に新井碧の作品が出展されています。
この機会に是非ともご高覧ください。
Silhouette #Synonyms for the Blink 8
2024
Pencil, pastel and oil on canvas
H530 × W727mm
概要
「Interwoven Chapters」は、かつて京都芸術大学大学院の「大庭ゼミ」で学び、現在はそれぞれ作家として活動する17名と、大学において彼らを導き、自らも作家として活躍してきた大庭大介氏、椿昇氏を含む19名が、それぞれの現在地を示す1作品ずつを展示する特別企画展です。かつて京都の地で互いに学び、切磋琢磨した作家たちの歩みを、春の門出の季節に、さまざまな視点からご覧ください。
●本展に寄せて――大庭大介(画家)
この展覧会に並ぶ19の絵画は、それぞれが独立した章でありながら、師弟、先輩後輩、そして同じ時間を過ごした仲間たちとの目に見えない思考の糸で結ばれている。
芸術において、作品はしばしば「個」の表現として語られる。しかし、ここにある絵画は、孤立した声ではなく、対話や沈黙、時にすれ違いや衝突をも含んだ複数のまなざしの交錯から生まれている。それは一方向の影響や単純な模倣ではなく、響き合い、重なり、ずれながら続いていく、断ち切ることのできない思考の連章である。私たちはしばしば、個を際立たせるあまり、歴史や関係の地続きを見失いがちである。この展覧会は、目に見えない関係の網目を静かに浮かび上がらせる。
創造とは、他者との関係から切り離された純粋な「自己表現」ではなく、見えない継承や記憶、共に過ごした時間から編まれていくものなのである。絵画もまた、孤立した表象ではない。他者との関係において立ち上がり、思考が連なり、響き合う場として開かれている。
19人の作家が描いた19の章は、互いの影を映し合いながら、新たな問いを投げかける。
この展覧会に並ぶ19の絵画は、それぞれが独立した章でありながら、師弟、先輩後輩、そして同じ時間を過ごした仲間たちとの目に見えない思考の糸で結ばれている。
芸術において、作品はしばしば「個」の表現として語られる。しかし、ここにある絵画は、孤立した声ではなく、対話や沈黙、時にすれ違いや衝突をも含んだ複数のまなざしの交錯から生まれている。それは一方向の影響や単純な模倣ではなく、響き合い、重なり、ずれながら続いていく、断ち切ることのできない思考の連章である。私たちはしばしば、個を際立たせるあまり、歴史や関係の地続きを見失いがちである。この展覧会は、目に見えない関係の網目を静かに浮かび上がらせる。
創造とは、他者との関係から切り離された純粋な「自己表現」ではなく、見えない継承や記憶、共に過ごした時間から編まれていくものなのである。絵画もまた、孤立した表象ではない。他者との関係において立ち上がり、思考が連なり、響き合う場として開かれている。
19人の作家が描いた19の章は、互いの影を映し合いながら、新たな問いを投げかける。
●「それじゃダメなんだよ」――椿昇(現代美術作家)
芸術⼤学という場で指導する⽴場の僕たちと、指導を受ける学⽣たちの関係には実に多様なパターンが存在する。それは⽂部科学省が⼀応のガイドラインを⽰してはいるが、⽂化遺伝⼦の伝達経路と考えて、彼らがそれを緻密に編んで来たかといえばいささか⼼許ない。⽣物学的な遺伝情報が、「科学」という厳格な再現可能性の元に⽇々アップデートが繰り返されている事と⽐べ、⽂化の遺伝⼦は「教育」という使い古された伝達システムに依存したままだ。それは、明治期に導⼊されたシステムに駆逐されたはずの「徒弟」や「⼝伝」などという亡霊よりも明らかに開明的であり、優れているという幻想の元に継承されているが、果たしてそうだろうか。故に、この場に集まる若いアーティストたちとその作品が、「教育」という場から⽣まれたのかと問われれば、その⼤半は「出席」という退屈なルールの外で成されたに違いない。昼夜を問わず相談に乗り、筆を取って⽅法を伝え、居酒屋やカラオケを梯⼦し、着任前に卒業したOBたちにもオンラインで熱⾎指導を厭わない。何かが⽣まれる時、そこには確かな意志を持って⾏動する先達と、その情熱に⼼を開き、厳しい指導を受け⼊れる学び⼿が常に存在したのだ。「教育」や「制度」が束になってかかっても「徒弟」と「⼝伝」の威⼒は決して消えることはない。さあオープニングが終わったら、またもや「酒宴」が待っている。
芸術⼤学という場で指導する⽴場の僕たちと、指導を受ける学⽣たちの関係には実に多様なパターンが存在する。それは⽂部科学省が⼀応のガイドラインを⽰してはいるが、⽂化遺伝⼦の伝達経路と考えて、彼らがそれを緻密に編んで来たかといえばいささか⼼許ない。⽣物学的な遺伝情報が、「科学」という厳格な再現可能性の元に⽇々アップデートが繰り返されている事と⽐べ、⽂化の遺伝⼦は「教育」という使い古された伝達システムに依存したままだ。それは、明治期に導⼊されたシステムに駆逐されたはずの「徒弟」や「⼝伝」などという亡霊よりも明らかに開明的であり、優れているという幻想の元に継承されているが、果たしてそうだろうか。故に、この場に集まる若いアーティストたちとその作品が、「教育」という場から⽣まれたのかと問われれば、その⼤半は「出席」という退屈なルールの外で成されたに違いない。昼夜を問わず相談に乗り、筆を取って⽅法を伝え、居酒屋やカラオケを梯⼦し、着任前に卒業したOBたちにもオンラインで熱⾎指導を厭わない。何かが⽣まれる時、そこには確かな意志を持って⾏動する先達と、その情熱に⼼を開き、厳しい指導を受け⼊れる学び⼿が常に存在したのだ。「教育」や「制度」が束になってかかっても「徒弟」と「⼝伝」の威⼒は決して消えることはない。さあオープニングが終わったら、またもや「酒宴」が待っている。

